忍者ブログ

立体象書研究会事務局日記

一般社団法人立体象書研究会のホームページをご覧になっている方々からのご要望にお応えすることになりました。書はもともと難しいものとは思うけれど、立体象書研究会の考えていることが、わかりやすく、楽しく知ることができるページができたらいいね!このような要望が事務局によせられています。 -難しいことを、わかりやすく楽しく考える- そんなページができたらいいな、3次元の世界をわかってもらえるとうれしいな。そんなページを思い描きながら、事務局ブログにとりくみたいと思います。

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

、、、一つの存在としての空である。明らかに、それは「有」の立場であり、、、

、、、第3回立体象書研究会展の案内状、撮影段階、、、
下図、
光線による後景にある布地の文字は「影」である、前景の「作品」をどのような角度にするのかで変化する「影」ができる。立体象書作品「無」字には「存在する「無」の空間がある」、、、平面にできた「影文字」のみ筆で写すことを「書写」とするならば、こんなにつまらないことはない、「筆意なき影」という形だけのものなのだから、、、
今日もまた、、、内界、、、外界、、、熱い、
・第7回講習会-8月24日・25日-作品制作-
・第3回立体象書研究会展-9月15日~27日-展示-

、、、1953年現在、、、
 墨美 No21 ― 諸芸術における空間性について 井島勉 ― 
 p.3、、、 私は、空が最後の背景として額縁によつて区切られるといつた。それは飽くまでも未限定なるものとしての空が畫かれることであつた。しかしながら、たとへ未限定なるものとしてであつても、空が画かれるといふことは、何ものも画かれないといふことではない。いひかえると、最後の背景といへども、画かれない無限の空間として残されるのではなくて、そらといふ限定された空間として画かれるのである。いはば、最後の背景としてその形は未限定であるが、しかし空といふ一つの対象として限定されてゐる。いひかえると、実体的には一つの存在としての空である。明らかに、それは「有」の立場であり、「有」の論理としての「合理性」に支へられてゐる。西洋畫は、原則的に、このやうな背景としての空を画く。われわれは、空を海と見たてることは許されない、、、つづく


......背景・余白・独自の遠近法の意味をわきまへなければ、芸術としての書は、到底生まれないであろう、、、昭和28年の井島勉氏、......


Copyright (C) 2009-2014立体象書研究会 All Rights Reserved. 無断での盗用,転載など類似の行為を禁じます。使用等に関しては,必ず連絡ください。

拍手[6回]

PR