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立体象書研究会事務局日記

一般社団法人立体象書研究会のホームページをご覧になっている方々からのご要望にお応えすることになりました。書はもともと難しいものとは思うけれど、立体象書研究会の考えていることが、わかりやすく、楽しく知ることができるページができたらいいね!このような要望が事務局によせられています。 -難しいことを、わかりやすく楽しく考える- そんなページができたらいいな、3次元の世界をわかってもらえるとうれしいな。そんなページを思い描きながら、事務局ブログにとりくみたいと思います。

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、「有」を否定する虚無ではなくて、自己の内から「有」を産出する如き無である、

、、、第3回立体象書研究会展の案内状、撮影段階、、、
下図、
光線による後景の文字は「影」である、前景の「作品」をどのような角度にするのかで変化する「影」ができる。立体象書作品「無」字には、「無限な視覚的存在空間ができる」、、、平面にできた「影文字」のみの文字という形を筆で写すことを「書写」とするならば、こんなにつまらないことはない、「筆意なき影」という形だ けのものなのだから、、、
今日もまた、、、内界、、、外界、、、熱い、
・第7回講習会-8月24日・25日-作品制作-
・第3回立体象書研究会展-9月15日~27日-展示-

、、、1953年現在、、、
 墨美 No21 ― 諸芸術における空間性について 井島勉 ― 
 p.3、、、 ところが、東洋画においては、しばしば空を画かない。空を画かないといふことは、背景を「余白」のままに残すといふことである。しかし余白を残すとは、未完成のままに放置することではない。それもまた一つの背景なのである。そして、この背景も正に未限定なる背景である。しかし、この背景は、実体的に限定せられた一つの存在ではなく、実体的にも形態的にも限定せられない無限の空間、いはば「無」としての背景である。けれども、ここでも、前述の如き前景と背景の関係が見逃されない。「無」としての背景といえども、前景を産出すべき背景であり、またこの前景が画かれることによつて、逆にそれとの間に一つの視覚的緊張を孕む如き背景である。だから、「無」といつても、単に「有」を否定する虚無ではなくて、自己の内から「有」を産出する如き無である。それは、外延的な「合理性」の立場といふより、むしろ内包的な「精神性」の立場ともいへよう、、、つづく


......背景・余白・独自の遠近法の意味をわきまへなければ、芸術としての書は、到底生まれないであろう、、、昭和28年の井島勉氏、......


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