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立体象書研究会事務局日記

一般社団法人立体象書研究会のホームページをご覧になっている方々からのご要望にお応えすることになりました。書はもともと難しいものとは思うけれど、立体象書研究会の考えていることが、わかりやすく、楽しく知ることができるページができたらいいね!このような要望が事務局によせられています。 -難しいことを、わかりやすく楽しく考える- そんなページができたらいいな、3次元の世界をわかってもらえるとうれしいな。そんなページを思い描きながら、事務局ブログにとりくみたいと思います。

(書道・付録)と、(中國通史陳列)と、

下図、中国歴史博物館‐中国通史陳列‐商代の経済と文化、p.38、3-3-9「衆人協田」牛骨刻辞、、、殷の甲骨文の頁に、昨日の(書道・付録)藤田経世氏の、―手本の問題―を置く、
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 昭和三十二年「毎日ライブラリー書道・西川寧」、昨日と同じ(書道・付録)、
藤田経世(フジタ ツネヨ・1903~1984)氏、半世紀前の「書について」、、、
―手本の問題― つづき、、、
、、、 手本が型になったばあい、個性の躍動をおさえつけることに、なりやすいのは、いうまでもない。そして、型のなかにはいりこんでいれば、たいしたほねおりをしなくとも、どうにかおさまりがついてゆく。ことに書では、かたちの変化といっても、あるきまりのある文字を、とりあげるのだから、いっそうらくに、しまつができる。それだけにおちこみやすく、またぬけだしにくい。
 わかりきったことを、いまさらのように、ここでもちだすのは、わかりきっていながら、型のなかにぬくぬくと、あたたまっているかたむきが、ひどくめにつくからである。しかも、その安易さを正当化しようと、いなおっているような、ふてぶてしささえ、みうけるからである。型にひっかかるおそろしさを、あらためていいたてる必要が、あるとおもう。
 また、手本が単なる便宜、あるいは手段にすぎないことを、あきらかにしていないため、とんでもないはきちがいが、おこってきている。たとえば、書に対して、かくべつ関心をもたないひとが、書をみるときの標準は、学校でならった手本のすがたである。しかも、ごくすえのすえの、形式的なことがらが、いちばん根本的な規則として、第一に適用される。字の大きさが不ぞろいであるとか、行がまがっているとかすると、もうそれだけで、その書はだめなのだと、きめられてしまう。
 このような常識が、くつがえされないかぎり、ほんすじの書が、民衆のなかに基盤をもつことは、とうてい不可能である。さらに、習字のけいこをしたようなひとでも、あたえられた手本からぬけだして、ひろい視野をもつところまでは、なかなかすすんでゆかない。あたまから、おっかぶされるのでなくても、そんなふうの奇妙なはたらきが、ひきおこされてきている。、、、という、(筆者・美術評論家)藤田経世の1957年、、、つづく

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