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立体象書研究会事務局日記

一般社団法人立体象書研究会のホームページをご覧になっている方々からのご要望にお応えすることになりました。書はもともと難しいものとは思うけれど、立体象書研究会の考えていることが、わかりやすく、楽しく知ることができるページができたらいいね!このような要望が事務局によせられています。 -難しいことを、わかりやすく楽しく考える- そんなページができたらいいな、3次元の世界をわかってもらえるとうれしいな。そんなページを思い描きながら、事務局ブログにとりくみたいと思います。

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、、、この力は、芸術の場合には、古典への回帰によって養はれるか、、、

下図、たいざんきょうせきよくこんごうきょう「泰山経石峪金剛経」拓本、「開」字、
ーp.653 中国書道辞典 中西慶爾 木耳社ー たくほん【拓本】石や木または器物などに刻された主に文字あるいは文様を紙に写しとったもののこと。唐代では打本または搨本といい、宋になって拓本の語がある。刷本・石本・墨本ともいう、、、現存する最古の拓本は近年敦煌から出土した「唐太宗温泉銘」で、これには永徽四年(653)の墨書がついている、、、とある、
1952年の現在、
第十八號 墨美 ―諸芸術の独立と限界について 井島勉― 昨日のつづき、
 p.2.3、、、ところが、叛逆といふことは、本質的に、力の対立を予想するものであるから、枠となつた伝統への叛逆の場合にも、伝統的な力に対立する他の力が叛逆作用の動機をつとめねばならない。この力は、芸術の場合には、古典への回帰によって養はれるか、外来芸術の刺戟によつて培はれるのが常である。現代の日本においては、主としてこの後の場合が主動力をなしてゐる。そのことが、最初に指摘したやうな現象を導いたのであるから、その経過自体は決して、咎めらるべきでない。けれども、その外来の刺戟が単なる動力の域を超えて、芸術制作を拘束する枠の如き機能を発揮することになれば、芸術は豊かな発展を遂げるといふよりも、単に模倣的な類型化に陥るに過ぎない結果となる。外来の刺戟が新しい飛躍の原動力として役立つか、単なる類型化の原型たるにとどまるかは、専ら受けいれる側の知性と感性の程度に依存するのである。少しく詳細に吟味するならば、外見上の類似にも拘はらず、日本の各種芸術のそれぞれの現状の中にも、このやうな二種類の場合を区別することができるであろう。だから、同じ混乱の様相の中にも、期待さるべきものと排斥さるべきものとの二つの分子が潜んでゐることを見逃し得ないのである、、、とある、つづく

......芸術は常に新しい創造であるべきなのだから、、、昭和27年の井島勉氏......

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