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立体象書研究会事務局日記

一般社団法人立体象書研究会のホームページをご覧になっている方々からのご要望にお応えすることになりました。書はもともと難しいものとは思うけれど、立体象書研究会の考えていることが、わかりやすく、楽しく知ることができるページができたらいいね!このような要望が事務局によせられています。 -難しいことを、わかりやすく楽しく考える- そんなページができたらいいな、3次元の世界をわかってもらえるとうれしいな。そんなページを思い描きながら、事務局ブログにとりくみたいと思います。

、、、或は将来、旧い各分野の境界が撤廃されて、総合的な新しい分野が誕生、、、

立体象書研究会会員「書」作品、第32回 安芸全国書展(6/8~8/17)、
立体象書研究会会員出品者の作品鑑賞・会場作品から(7/13)、
・梅原可春さん作品「妙」、

*......昨日「無」をとりあげた、、、無から有を生じるという、この「妙」字、旁の「少」の中央に空間性という無の有を生じさせた、、、
韓非子にー 目を待ちて以て明となせば、見る所の者少なし ー 目をたよりに、見ただけで物事(ものごと)をよく判断できると考えると、実はその目に映(うつ)るものは少ないので、見識(けんしき)が立たない。目に映(うつ)らないところのものをも見る明(めい)が必要だ。という、‐p.406‐中国古典名言事典‐諸橋轍次‐講談社、
他の作品には見られない創意がこの作にある、、、書を見る、ものを見る、目に映(うつ)らないところのものを見る明(めい)が必要だ、これが見識(けんしき)だ、..........

、、、1952年現在、、、
第十八號 墨美 ― 諸芸術の独立と限界について 井島勉 ― 昨日のつづき、
 p.4、、、書家が旧い書の枠を越えて絵の分野に進出しても一向に構はない 。或は将来、旧い各分野の境界が撤廃されて、総合的な新しい分野が誕生することもあり得るかも知れぬ。旧い美に見慣れた眼にはそれはおそらく異様に映るであらう。 しかしそれが眞に新しい美の表現であるならば、決して排斥はできない。ただその場合にも、永い過程を経て独自の美的意味を確立して来た旧い分野も、容易に滅び去らぬことは確かである。映画が出現する時代になつても、人々はギリシャの彫刻家の如く制作することにも、決して飽きないのである。その意味における芸術の永遠性を忘れることはできない。 (京都大学教授 文博)


......芸術は常に新しい創造であるべきなのだから、、、昭和27年の井島勉氏、......

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