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立体象書研究会事務局日記

一般社団法人立体象書研究会のホームページをご覧になっている方々からのご要望にお応えすることになりました。書はもともと難しいものとは思うけれど、立体象書研究会の考えていることが、わかりやすく、楽しく知ることができるページができたらいいね!このような要望が事務局によせられています。 -難しいことを、わかりやすく楽しく考える- そんなページができたらいいな、3次元の世界をわかってもらえるとうれしいな。そんなページを思い描きながら、事務局ブログにとりくみたいと思います。

この厳しさは一体どこからくるのだろうか

林語堂(1895-1976)・「人生をいかに生きるか」―いかに書を読むべきか―、p.225に、
 思想と体験が傑作(けっさく)をよめるほどになっていないときに傑作(けっさく)を読めば、悪い後味(あとあじ)がのこるばかりであろう。孔子はいっている。「五十にしてもって易を学ばば、もって大過(たいか)なかるべし。」つまり四十五歳ではまだ読んではならんというのである。論語の孔子の逸話は、実に温和な風格と円熟(えんじゅく)した知性に溢(あふ)れているが、これに接する人みずからが円熟(えんじゅく)せぬうちはその醍醐味(だいごみ)がわからない。、、、とある。
「書」の醍醐味(だいごみ)とは、
下図、第31回 安芸全国書展(6/9~8/18)、青山千秋さんの作品、‐「無」‐の表現ををリズム、バランスという「筆意・三次元鑑賞」から観てみよう!!!
D714.JPG
昭和三十一年「書の美学と書教育」 井島勉・墨美社
昨日からのつづき、―芸術と人生― p.188.189
 なるほど人生は厳粛なる現実である。深いまなざしをもつ人にとっては、人生は限りなく悲哀と苦悩を潜めているもの、と思えるかもしれない。ときには、、それからの救済を念じて、神に祈ることも稀ではないだろう。人生の厳粛さを回避して生きる道を、人間は知らないのである。
 しかしながら、この厳しさは一体どこからくるのだろうか。それは、生きているかぎりの人間に課せられた根源的な不自由に由来するとでも解さるべきものではないだろうか。というのは、日常の現実生活は、知識的な生活であれ行為的な生活であれ、常になんらかの拘束の下においてでなければ営なまれない。「これは一本の睡蓮の花だ」と判断しつつ知識するにしても、「睡蓮の花」という名称を知らなければどうにもならぬし、「一本の」という場合、数学上の公理や定理を知らなければ、いかんともしがたい。その名称も定理、自分の自由な創造ではなくて、いわば外から借りうけた動かしがたい規準である。みずからそれに拘束せられなければ、いかなる知識も成り立たない。行為的な生活の場合でも、常識にかなった意志やさまざまな社会的制約に拘束されることなしに、正しい行為を営むことができるだろうか。本能の赴くままに奔放に振舞うような場合にも、実は彼は本能というものから自由になってはいないのである。、、、と、(1956年の井島勉)氏はいう、、、つづく、

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