下図、左上「漢字の起原・加藤常賢」p.542、右上「字統・白川静」p.446、左下「大漢和辞典・諸橋轍次」巻十p.657~663、右下「甲骨文編・中國社會科學院考古研究所編輯」p.395に、「三代吉金文存・羅振玉」2.17.4(象且辛鼎・図版)を置く、
「象」字、
漢字の起原に―「象」、 (字形)、、、この獣を「象」と呼んだのは、韓非子の解老篇に想像で画いたからであると言うのは、まったく本末顛倒である。象なる獣を見て、字がこれを写したことは明白である。 (字音)、、、「徐両切」(ショウ)である。この音は説文の解釈に「大獣」とある「大」の意を表したことは疑いない。「壮」字を説文に「大なり」と解釈したによってわかる。 、、、とある。
大漢和辞典に―「象」 36372、-3.「象意」シャウイ、(漢書・藝文志)、、、象形・象事・象意・象聲・轉注・假借、造字之本也。、、、 32.(見象牙而知其大於牛・象のきばを見れば牛より大きいことがわかる)・一端を見て其の總體を察することの出來る喩。、、、 170.(象有歯以焚其身・象には牙があるので、其の身を殺される)身にある寳が却って害になる喩。焚は僵の意。 、、、とある。
昭和三十一年「書の美学と書教育」 井島勉・墨美社
―芸術と人生― p.188、
芸術の本質に関するもっとも核心的な事柄を、以上のように考えてくると、芸術と人生との関係についても、しばしば陥りがちな誤解を避けることに役立つだろう。そしてこのことは、芸術教育の意義を考える上にも、きわめて重要なのである。
普通に、人生は苦しみに充ちた厳粛な現実といわれ、芸術は現実を超えた楽しい仮象にたとえられる。その結果、芸術は人生の飾りであり、灰色の人生の上空はるかに架けられた薔薇色の虹であり、現実生活の悲哀や苦悩からしばしのがれるためのかりそめの慰安や娯楽である、ということになりやすい。
このような思想は、古くから一部に行われ、現在でも、多くの人びとはそのように信じているに違いない。一応はもっともとも思われる解釈であるが、よく考えてみると、はなはだ浅薄な独断にすぎぬのである。、、、と、(1956年の井島勉)氏はいう、、、つづく、
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