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立体象書研究会事務局日記

一般社団法人立体象書研究会のホームページをご覧になっている方々からのご要望にお応えすることになりました。書はもともと難しいものとは思うけれど、立体象書研究会の考えていることが、わかりやすく、楽しく知ることができるページができたらいいね!このような要望が事務局によせられています。 -難しいことを、わかりやすく楽しく考える- そんなページができたらいいな、3次元の世界をわかってもらえるとうれしいな。そんなページを思い描きながら、事務局ブログにとりくみたいと思います。

第1回立体象書研究会展、続き

下図、可比丹作品「同行二人」に映る影、「同行二人」、、、弘法大師さんとで四国遍路に、
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昭和三十一年・初版「書の美学と書教育」 井島 勉 著・墨美社、昨日のつづき、、、
人と技術、p.107、108に
一般に、技術とは、あらかじめ規定せられた一定の目的を実現すべき、身体の労作を意味する。一定の目的とは、他人から与えられる場合もあり、客観的な規格として定められている場合もある。だから、右のような芸術の修業は、結局は技術の修業に
ほかならない。もっとも、そのような慣習にも、それにふさわしい芸術観の裏づけがないではなかった。けれども、それは芸術観というより、むしろ芸道観である。芸術の極致を、幽玄な人倫性になぞらえ、芸術的習練を、観念的な人格陶冶の道に帰する芸道観である。それは、人を中心とする東洋的な芸術思潮の伝統の影ともいえる。そして、各人の自発的な自覚を期待しえないような沈滞した時期には、この思潮は、必然的に、流儀的な格式や師弟の伝承関係に依存せざるをえなくなった。流儀とは、本来、純粋に芸術的な流派的共感を地盤とすべきものであり、師弟とは同一の美の神に仕える先行者と後続者にほかならぬものであるのに、ややもすれば流儀的系譜がただそのために尊重されたり、師匠が美の神そのものであるかのごとく偶像視され崇拝されたりする。いきおい芸術は形骸化し、芸術家は卑屈なる工人や奴隷のごとくなる。芸術思潮における封建性とは、このような事柄をいうのであろう。、、、とある。

五十余年前の、芸術思潮における封建制とは、このような事柄、、、芸術の形骸化、、、今は?、つづく、、、

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