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立体象書研究会事務局日記

一般社団法人立体象書研究会のホームページをご覧になっている方々からのご要望にお応えすることになりました。書はもともと難しいものとは思うけれど、立体象書研究会の考えていることが、わかりやすく、楽しく知ることができるページができたらいいね!このような要望が事務局によせられています。 -難しいことを、わかりやすく楽しく考える- そんなページができたらいいな、3次元の世界をわかってもらえるとうれしいな。そんなページを思い描きながら、事務局ブログにとりくみたいと思います。

第1回立体象書研究会展より

下図、可比丹作品「同行二人」に映る、もうひとつの「同行二人」、、、二人で四国遍路、、、
47.JPG
 古典なき筆意は空虚であり方法なき書作は盲目である!という、立体象書研究会です。

昭和三十一年初版の「書の美学と書教育」 井島 勉著・墨美社、つづきます、、、
19人と技術、p.107に
、、、新しさを自負する立場から見れば、ふるい型の芸術家は、もっぱら技術を頼みとする職人、あるいは技術家にすぎないと非難されているようである。たしかに現代に近い日本の各芸術分野においては、芸術の修練ということは、技術の修得とほとんど同義語であるかのごとく行なわれてきた。流儀の修得ということにすべてが賭けられ、流儀を超えることは、少なくともその流儀の立場からは、あたかも芸術の否定であるかのごとくに扱われた。流儀の許す範囲内でそれぞれの独創を試み、いかにして流儀の理想や古典に肉迫するかということが、最大の関心事であった。だから、そこでは、芸術にたずさわる人びとは、最高度の独創性を発揮して美を創造する芸術家というより、むしろ、流儀の規準を遵守しながらその目的を実現しようとする技術家とよぶにふさわしいものであった。たんなる手段にすぎないはずのものが、究極の目的と混同され、流儀が起こってくる美の源泉を忘れて、人びとは流儀の偶像に奉仕する剃髪の職人と化す。一子相伝とか、免許皆伝とか、奥義をきわめるというようなことも、ふたをあけて見ると、盲従的な馴致の修行に等しかった。、、、つづきます明日、、、

半世紀前の文なのですが、、、この「流儀」なるものいまだに、、、



 

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