なぜ?立体象書研究会展なのか!「古典なき筆意は空虚であり 方法なき書作は盲目である」
今回の研究会の展示ふりかえってみよう!
上図準備中、右卿 先生の臨書を一枚づつファイルに、古典とは?臨書とは?書とはなにかを!
書の美学と書教育 昭和五十七年二月一日 第六版 著者 井嶋 勉 ・墨美社
25 書を通じての日本文化の海外交流 、、、p.149.150より
書というものが、文字の読めない外国人によって、全面的に理解されるというようなことは、まず考えられない。中世ヨーロッパの装飾的な花文字を、日本人が眺める場合と大差がないだろう。しかし、文字が読めなかったら書が全然わからないかといえば、必ずしもそうでもなかろうと思う。われわれ自身でさえも、仮に文字が読めなくても、書の美しさに感動することができるし、文字が読めても意味がわからなければ、読めないのと同じである。文字を書くことと書を書くこととは、必ずしも同じことではないのである。書とは、文字を書くことを場所として成立する芸術なのであるから、書から文字性を消し去ることはゆるされぬだろうが、しかし、芸術が問題である限りは、文字を書くことと、文字を書くことを場所として成立する芸術をつくることとは、別であり、鑑賞の立場からいっても、文字を讀むことと、文字を書くことを場所として成立する芸術を理解することとは、けっして同じことではないのである。この意味において、文字の読めないヨーロッパ人たちも、書芸術を解さないとはいえぬであろう。厳密にいえば、文字には一定の約束はあっても、必ずしも一定の形があるとはいえない。形は、約束にしたがって文字を書くときに、人間がそれぞれつくり出すのである。なぜならば、水平の一本暴は、一という文字であるが、どのような長さと幅で書くかは、書く人間の自由である。この約束を関心の中心とする立場が、文字の立場であり、この形を関心の中心とする立場が、書の立場であるといってもよい。もとより、文字の立場にも何ほどかの書の立場が随伴し、書の立場にも文字の立場が随伴するけれども、二つの立場の中心は、たしかに別である。だから、文字が読めない場合にも、書がわからないとはいえぬのである。、、、とある。
書とは面白いものなのです!!!つづきます!!!
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