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立体象書研究会事務局日記

一般社団法人立体象書研究会のホームページをご覧になっている方々からのご要望にお応えすることになりました。書はもともと難しいものとは思うけれど、立体象書研究会の考えていることが、わかりやすく、楽しく知ることができるページができたらいいね!このような要望が事務局によせられています。 -難しいことを、わかりやすく楽しく考える- そんなページができたらいいな、3次元の世界をわかってもらえるとうれしいな。そんなページを思い描きながら、事務局ブログにとりくみたいと思います。

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正しい理論が身をもって理解されていないか、まちがった理論が確信されているか、

下図、1981年・可比丹撮す、山東省・雲峰山「右闕題字」。
―北魏・永平四年(511)の刻、鄭道昭の書を包世臣は「篆の気勢あり、分隷の雅韻あり、かつ草書の情性あり」と激賞する。鄭書は、日下部鳴鶴により明治・大正にわたり日本書道に影響することすこぶる多かった。(中国書道辞典・中西慶爾・二玄社)―

昭和三十一年「書の美学と書教育」 井島勉・墨美社、昨日からのつづき、
―書制作の主体を確認せよ― p.239に、
、、、書をつくる者が、こどもたち自身であって、けっして教師ではないというわかりきった事実は、現在では、少なくとも心ある学校では、すでに実践されているようである。たとえば、教師がこどもの手を握って書かせたりはしないとか、手本による奴隷的な拘束を強制しないというような傾向は、かかる良識の証拠として受けとることができる。ところが、一体こどもの何が書をつくるのか、ということについては、仮に理論的にはある程度の明察がもたれていても、実践的には必ずしも良識が発揮されていない傾向が強いように思われる。それは、理論と実践が対応しないということ、いいかえると、正しい理論が身をもって理解されていないか、まちがった理論が確信されているか、教師として不適格であるかに基づくのであろう。、、、とある(1956年の井島勉)氏。

―何が書をつくるのか、理論と実践が対応しない、まちがった理論が確信されている、手本による奴隷的な拘束を強制―、、、はたして現在は、、、

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