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立体象書研究会事務局日記

一般社団法人立体象書研究会のホームページをご覧になっている方々からのご要望にお応えすることになりました。書はもともと難しいものとは思うけれど、立体象書研究会の考えていることが、わかりやすく、楽しく知ることができるページができたらいいね!このような要望が事務局によせられています。 -難しいことを、わかりやすく楽しく考える- そんなページができたらいいな、3次元の世界をわかってもらえるとうれしいな。そんなページを思い描きながら、事務局ブログにとりくみたいと思います。

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、、、「師嫌フ処ハ、書家ノ書、歌ヨミノ歌、又題ヲ出シテ歌ヨミヲスル」ことであった、、、

―魚― 
(14)魚紋圖案
p.211、・圖版203‐山東漢代畫像石 
‐中國圖案大系‐第四巻-秦漢時代-張道一主編‐美工圖書社‐

p.268‐良寛禅師と秋艸道人‐、、、良寛が対世間的にほとんど働きかけなかったという態度は、彼の作品そのものと深い関係がある。解良栄重が聞きとめた良寛禅師奇話に「師嫌フ処ハ、書家ノ書、歌ヨミノ歌、又題ヲ出シテ歌ヨミヲスル」ことであったとのべているが、彼は景樹と同時代者ではなかったが、これに類した人々のあり方をきらったのである。文学、とくに短歌は極端なものである。極端とは、中途半端な妥協をゆるさぬことである。良寛は自己の抒情に忠実であるために、社会的妥協をすべて排除してしまった。「歌人の歌」を好まぬことは、彼の短歌への傾倒と同じ理由からである。それゆえ、良寛は、彼ののこしたものを守りつたえるわずかな人々を除いて、彼の在世時代はむろんのこと、江戸時代が終り、大正期にはいってから後になってようやく、文学的に評価を得られるようになったのである、、、とあ る、「會津八一とその芸術」‐昭和52年6月30日3版発行・著者 植 田重雄・早稲田大学出版部

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