下図、「北魏 張猛龍碑 ・書跡名品叢刊」と、「人生をいかに生きるか(下) 林語堂‐阪本勝訳 ・講談社学術文庫」を載せる、林語堂は、書についてかたるときに、よくこの「張猛龍碑」を引き合いに出して、、、
上図の冊子、、、林語堂(りん ごどう1895-1976)は、「人生をいかに生きるか」、、、―煙草と香について―で、こう言っている、、、今日の世界は、喫煙家(きつえんか)と非喫煙家(ひきつえんか)とに分かれている。、、、
p.95、、、こういった四角ばった道徳家たち、無感情で詩味を解せぬ人々には、喫煙(きつえん)の道徳的精神的利益を玩味(がんみ)することはとうていできない。けれども、われわれ喫煙家(きつえんか)の攻撃されるのは、芸術的方面からではなく、きまって道徳的方面からであるから、まず手始めに、禁煙家よりまず高い標準に立っている喫煙家(きつえんか)の道徳のために弁じなければならない。
パイプを口にくわえている人は、私の好みに適(かな)った人である。パイプをくわえたときの喫煙家(きつえんか)は、常よりも陽気で、社交的で、いっそう隔意(かくい)のない無礼(ぶれい)ぶりを発揮し、時には非常に話に実が入ることがある。いずれにせよ、こっちと同様、先方も私に好意をもっているという感じをいだかせられる。私は、つぎのようなことをいったサッカレーに全幅(ぜんぷく)の賛意を表する。「パイプは哲学者の唇(くちびる)より叡智(えいち)をひきだし、愚者の口をとざす。パイプは、瞑想(めいそう)的で、思慮(しりょ)深く、にこやかできどらない座談をかもしだす。」
喫煙家の指の爪(つめ)はたいてい汚れているけれども、心さえ温かければ、そんなことは問題でない。いずれにせよ、瞑想(めいそう)的で、思慮(しりょ)深く、にこやかできどらない座談などというものはめったにあるものでないから、そういう楽しみを味わうためなら、誰しも高価な犠牲(ぎせい)をはらうことをいとはない。そして、もっとも重要なことは、パイプをくわえた人はつねに幸福であり、幸福は結局、道徳的価値の最(さい)たるものだということである。W・マッギンはいっている。「葉巻をくゆらすもので自殺したものはない。」、、、というのだが、、、
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